Part1
出会いから結婚まで

毎週金曜日の夜から日曜日の夜まで過ごす日々も2004年1月くらいから少しずつ変わってきました。
まず、失業手当をもらい終わって、私も少しずつ派遣などで働くように。
土日に仕事が入ることが多かったので、そういう時は旦那様だけ実家に行ってもらうように。
私も地元の友人が出来たりして、少しずつ生活も楽しくなってきました。
 そうこうしている間に2004年4月に、なんと旦那様のいる部署が閉鎖になり、隣の支店へ移ることに!
そんなわけで私の新婚時代最初の土地での生活は2003年9月〜2004年3月までとなりました。
引っ越す時には友達と別れるのが辛くて、やっぱり結婚してここに住んで良かったな、と思えるようになっていました♪
 そして新しい支店の近くに引っ越しをし、実家へは車で山を越えて2時間弱、という距離になりました。当然実家に行く週末も月に2.3度と減らすようになり、行くときは金曜日の夜ではなく、土曜日の午前中、と変わりました。そして私は新しい土地でも派遣で仕事を入れていたので、実家に行けたり行けなかったり。
正直行きたくなかったのでわざと土日に仕事を入れることも。
でも実家の近くで仕事があれば積極的に入れて、派遣会社からの交通費を利用して実家で子供達と過ごすようにしていました。そういう時は旦那様抜きですが、どちらかというと私1人で行った方が姑もご機嫌でしたし、何となく楽しい時間が過ごせたのです。
 そんなわけで行ったり行かなかったりの週末。旦那様と2人きりで過ごす週末は楽しくて、私にも「自分の時間」が増えてくると、継子達の存在はますますただの「重荷」になってきました。
 ですから凌太から毎晩のように電話が来て「もしもしー」と言われ、こちらから「今日は何をしてたの?」といった質問が来るまで電話口で待っていることとか、正直「うっとうしい」と感じていました。時には冷たい声を出したこともあったかと思います。でもめげずに電話を掛けてくる凌太。普通の子は家に帰れば当たり前のようにお母さんがいて、その日学校であった話など、自然と会話が広がるのでしょうが、凌太には家で待ってくれる母親はいません。電話で喋るだけが唯一の母親とのスキンシップ。・・そうはわかっていても優しく出来ないことも多々ありました。

 でも本当に、純粋に「新しいお母さん」を喜んでくれていた凌太。
小学4年生の9月から私が母親になったのですが、確かに4年生の終わりの頃、宿題を持って週末駿平と2人で我が家に来ていた凌太。2人が寝た後で「どんな宿題持ってきたんだろうね?」と旦那様とこっそりカバンを開けてみると、そこには
「4年生になって嬉しかったこと」というタイトルの作文が。
読んでみると
4年生になって一番嬉しかったことは新しいお母さんが出来たことです。初めはまさかお母さんになると思わなかった。・・・・」
などという書き出し。旦那様の手前、涙をこらえるのに大変でした。
 そんな気持ちに応えたい、頑張ろう、という気持ちもあるのに、でもなかなか素直に受け入れられない私・・・。どうしても愛せない自分がとても哀しかったのです。
 駿平に至っては、「この子と暮らすなんて耐えられるだろか?」とずっと不安に思っていました。駿平の存在を知ってから、ボランティアサークルに入り自閉症の子達とも接してきた私。それなりにあった自信なんて、その頃にはとうに吹っ飛んでいました。
 
 「今日は母の日だったので、駿平と2人で折り紙を折りました」
という手紙と共に母の日の二日後に届いた折り紙。
「母の日なのに来てくれなかった」などと恨めしい言葉は書いておらず、ただ「母の日だったから」と手紙をくれました。そんなことも最初は重く感じる中、お礼の電話を入れると
「今日送っても母の日当日にはお母さんに届かないんだよ、と言っても『いいんだ♪』と言って折ってたみたいよ」
と姑に言われて胸が熱くなったことも・・・。
母の日だからそばにいてあげよう、なんて気持ちすらなかったダメな母なのにね。凌太はただ「母親」という存在が嬉しくてしょうがないだけなのに。そして私がこんな風に煩わしく思っていることなど知る由もなく。「行きたくても行けないだけ」と言う嘘を信じて。ただ「今週こそ」と週末来てくれるのを祈りながら・・・。
 そういう気持ちもわかっているつもりなのに、それでもなかなかいい母親にはなれないまま、もうすぐ「タイムリミット」の小学校卒業が目の前まできていました。



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